赦されない罪

罪を口にして、誰かに優しくされたいためじゃない。でも書き残しておきたい。批判されるのはわかってる。なぜなら自分が自分をいちばん強く批判しているから。

母への罪①

いじめの話も途中だが、ここで私の母のことを書いておこうと思う。

 

 

私の母は、決して“ダメな親”ではなかった。

むしろ、ここまで自己犠牲精神の強い親を、他に見たことがない。

私の母は私の誇り。

 

私が幼い頃に両親は離婚した。

理由は父のギャンブル。

(…と、聞いていたものの、後にそうでないことを知る。それはまた別の機会に)

その為にシングルマザーとなり、母は必死に私を育ててくれた。

 

シングルマザーといえども、私が貧しい思いをしたことはなかった。

欲しい物は買ってもらえた。どんなにくだらないものでも、駄々をこねれば手に入る。

幼い私は知らなかった。女手ひとつで子を育てながら、貧しい思いをさせないようにお金を稼ぐ大変さを。

『知らない』というものは罪である。

 

こうして書けば、『なんて甘い母親だ』と思われるかもしれない。

思春期、女の子特有の、「大人の汚さ・世界の汚さに過剰反応する病」発症していた私もそう思っていた。

「なんでそんな甘い態度で私を育てたの!?だからこんなに我儘になったんだ!」

そう責めたこともあった。(とにかく私は屑なのだ)

 

だが大人になった今、理解できる。

母もまた、罪悪感を背負っていたのだ。

 

幼くして父親と離れることとなった私。

今でこそシングルマザーなんて溢れかえっているが、当時はまだ珍しいと思われていた。

父の日の似顔絵が描けない。同じクラスの子の「お父さんと○○した」という楽しい話を何も言えずに聞いている。

 

そして帰りが遅い母。

保育園に通っていた私を迎えに来るのは、必ず祖母だった。

帰ったあとも、母方の実家暮らしで、近所に遊べる子供なんていない。

(離婚する前は団地住まいだったので、近所の子とよく遊んでいた)

ただテレビを見るだけ。

ひとりで遊ぶだけ。

 

寂しい思いをしている、そんな私を見て、母は申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだろう。

 

だからこそ、私の我儘にはできるだけ応えようとしたのだ。

やりたいことはさせてくれた。お金がないはずなのに習い事もさせてくれた。

欲しい物も買ってくれた。お金がないはずなのに。

 

母は、自分のための時間なんて、きっと1分もなかっただろう。

いつだって私を第一に考えてくれた。

 

本当に幸せ者だ。

 

 

だが。

 

私はそんな思いを母にさせてしまったのだ。

何も知らない罪。

母を責めた罪。

 

何度困らせただろう。

何度泣かせただろう。

 

なんでも手に入る甘い環境。

何をしても守ってもらえる環境。

そんな中で育った私は、ただの我侭問題児へと育った。

 

『反抗期だから』。

そんな言葉で片付けられない、暴言をたくさん吐いた。

そんな言葉で片付けられない、態度をたくさんとった。

 

 

一見、だらしない母に見えるだろう。

離婚したのも母の責任、子供への苦労も「当然だ」という人がいるはずだ。

 

だが、そんな言葉を言われたら、おそらくひねくれた私はこう思うのだろう。

「母のことはお前らには分からない」、と。

一番近くで母を見てきた。私だからわかるのだ。

 

疲れても手作りの夕食を欠かさなかった。

休みの日は遊んでくれた。

母はいつだって一生懸命だった。

…ただ、ひどく不器用だった。

 

鞭の使い方が分からなかったのだ。

だから、ひたすらに飴を与え続けた。

母はとっても優しかった。

悲しいほどに、優しかった。

 

誰か、ひとりでも。

当時の母を支え、鞭の使い方を教えていてくれたら。

…なんてものは、愚かな考えか。

 

私だってこの記事を客観的に見れば、「お前は何様だ」と言うだろう。

自分の教育者に対してダメ出しをしているも同然なのだから。

 

 

分かるだろうか。これも罪なのだ。

こんな簡単な事を、思春期の私は気づけなかった。

自分自身の問題なのに、言葉が違えど「教育したお前が悪い」と母に言っていたのだ。

 

更に言えば。

子が朗らかに生きることが、親に対する最大の恩返しであるのに、

私は今日もこうして、自責ばかりをして生きている。

 

これを知ったら、母はひどくがっかりするだろう。

 

だからこれも、罪。

いじめた罪②

 

いじめた相手は一人ではなかった。

 

最初にいじめたのは、いつも早口で声が小さい女の子だった。

今考えると、吃音症だったのかもしれない。

話し始めはだいたい吃っていた。それが嫌で、早口で小声だったのかもしれない。

もう推測しかできない。

今はどこにいるのか分からない。

彼女は同窓会にも来なかった。

 

当時、自分でも具体的に何が不満だったのか分からなかったが、とにかく不快だった。

こそこそとしていて、持ち物も汚かった。

同級生はその子に酷いあだ名をつけて笑っていた。

 

誤解がないように書いておこうと思う。

同級生は、みんな大人だった。

確かに先述したように、影で笑うこともあった。

だが決して、本人が酷く傷つくような、そんないじめはしなかった。

仲間はずれになんてしなかったし、休み時間にはその子と遊んでることもあった。

無視もしないし、ご飯だって一緒に食べていた。

酷いあだ名だって、由来こそ酷いものだったが、親しみを込めて呼ばれていた。

それも一種のいじめだと思うが、それはまだ「いじり」で済むレベルでしかなかった。

同級生は、みんな大人だったのだ。

 

わたしには、あだ名がなかった。

 

私の学級(学年)は、稀に見る仲良しクラスで、先生の言うことはちゃんと聞く、真面目に授業を受ける、児童会のめんどくさい活動だって真剣に取り組み、ボランティア活動だって進んでこなした。

運動会だって一致団結していたし、先生が決めたことでもないのに、生徒の自主的な活動によって教室の花瓶にはいつも花が揺れていた。

合唱だってすごかった。よくある「真面目にやってよ男子~」なんてものはなく、男女がそれぞれ真面目に練習して、校内のコンクールが讃えられた結果、市の合唱コンクールに参加したこともあった。

 

とにかく仲が良かった。

男女関係なく、あだ名か下の名前で呼び合っていた。

仲がいいと呼び捨て、そんなに交流はないと「くん」「ちゃん」付け、

みんなから愛される子はあだ名。

まさに絵に描いたような理想的なクラスだった。

 

話を戻す。

そんな中で、あだ名がついていた彼女は、愛される立ち位置にいた。

「ちょっと人とは違う子だけど、僕らが支えてあげよう」。

そんな暗黙の了解があるようなクラスだったのだ。

 

他にもいた。特別クラスの男の子だ。

知的障害があって、いつもは違う教室で勉強をするが、クラスのみんなは決していじめなかった。

朝の活動が終わったら、教室を移動する彼に、みんなが「いってらっしゃーい」と自主的に送り出す。

帰って来たら「おかえりー」。

彼も愛される立ち位置にいた。

あだ名だってあった。

 

そんな中で、先程も書いたが

わたしにはあだ名がなかった。

 

もちろん呼び捨てにはされなかった。

「くん」「ちゃん」でも呼ばれなかった。

私はひとりだけ、「さん」だった。

 

それはよくある「リーダー気質」だったからじゃない。

腫れ物だったからだ。

 

私には友達がいなかった。

私はいつもひとりだった。

本を片手に時間を潰した。

昼休みはいつも教室か図書室にいた。

 

わたしには、守られる理由がなかった。

いじめた彼女のように早口で小声ではなかったし

特別クラスの彼のように障害を持っているわけでもなかった。

 

しかし「個性的」だった。

間違っていると思ったことは、例え先生であっても突っ込んでいった。

同級生がしたことでも、いけないと思ったことは非難した。

私は正義感が溢れすぎて、「相手の立場になって物事を考えられない子」だった。

 

私は真面目で頑固だったのだ。

 

かと思えば、昔から非常にヒステリックな物言いをするめんどくさいヤツだった。

気に食わないことがあればすぐ泣くし、嫌なことを言われたら泣き叫びながら反発するヤツだった。

 

そのせいで、どう付き合えばいいかわからない子として認識されるようになった。

だからひとりだけ。

「○○さん」と呼ばれていたし、遊びに誘われることもそんなになかった。

たまに、ひとりでいる私を可哀想に思った子が誘ってくれた。

 

そんな私をからかう子が、理想的な学級とはいえ少なからずいたのだ。

「泣き虫」「デブ」「ブス」「のろま」「臭い」。

それを言うのは、最初はひとりの男の子だけだった。

その後それに便乗した子がいたが、積極的にいじってくるのは彼だけだった。

後に聞いたが、当時私は、彼に好意を抱かれていたらしい。

小学生男子特有の、「好きな子はいじめちゃう」というアレだった。

 

だが、当時はただただ悲しかった。

どうしてこんなに酷いことを言われるのだろう、と涙を流した。

手で叩かれたこともあった。

男の子が怖くて仕方がなかった。

 

そして、そんな時。

私に愚かな疑問が浮かんだのだ。

 

「どうして、彼女は言われないの?」と。

 

私より早口だった。

私より小声だった。

私より貧乏だった。

私より不潔だった。

私より頭が悪かった。

 

そんな彼女がいるのに、そこにいるのに。

私よりも劣っているはずのその子の周りには友達がいるのに。

 

私はその時から、向ける矛先を間違えたのだ。

いじめた罪

 

私は小学生の頃、いじめをしていた。

私は中学生でも、いじめをしていた。

 

「軽い気持ちだった」なんてことは言わない。

なぜなら面白半分ではなかったから。

しかし幼い私は、自分のこの感情に理由があることには気付かず、行動をしていた。

誰にぶつければいいか分からない感情を、その子に向けたのだ。

 

自分で言うのもなんだが、私は正義感に溢れている。

だから当時は、「自分が悪い」なんて考えていなかった。

『考えつかなかった』が正しいかもしれない。

 

これから書いていく記事は、ただの言い訳。

自分がいちばん分かっている。

例えどんな理由があろうと、犯していい罪なんてないことを。

 

私は、きっとこのブログを読んだ誰よりも、私のことが憎くて仕方がない。

「いじめをしていた」。

これだけでもう、許すべきことではないのだ。

例えどんな理由があろうとも。

いじめた人間は、とにかくそれ以上の罰を与えられるべきなのだ。

一生苦しむべきだ。

一生後悔するべきだ。

一生背負うべきだ。

いじめなんてしてはいけないのだ。

 

最初に書く。

胸糞悪いことしか書いていない。

読むのは自己責任だ。

そして、これ以上わかりきったことは聞きたくないので、コメント機能はつけない。

擁護する箇所なんてひとつもない。

叩かれて当然、つくコメントだっていくらでも予想がつく。

「言い訳だろ」

じゃあ死ねよ

「人の目のつくところに書いて結局は優しくされたいだけなんだろ」

「黙ってろよゴミ屑」

私なら、こう書く。

わかりきっている。

 

答えは出ている。

「いじめたほうが悪い。」

そう、いじめたほうが10の悪なのだ。

 

過去の自分を語る前に、最近思うことを書いておこうと思う。

 

 

先ほど、「いじめたほうが悪い」と書いた。

そんなものは討論する余地もなく当然のことなのだ。

そのくらい当然のことなので、これと同じ意見が書かれているようなものは、世間には溢れている。

『いじめをしてはいけない』と教える者や物たちが溢れている。

 

しかし、その多くが「相手の立場になって考えよう」と口をそろえて言うのだ。

 

はっきり言おう。

馬鹿じゃないのか。

 

いじめる側がそんなことが出来るなら、そもそもいじめなんて起きないのだ。

相手の目で物事を考えられる子がいるなら、その子は傍観者か何かなのだ。

当人にそんな余裕があると思っているのだろうか。

はっきり言って教えにならない。

 

考えられないから、いじめが起きる。

いじめる人間は、頭がオカシイのだ。

そんな奴に常識を教えて、素直に吸収してくれると考えているのか?

害悪はどこかにぶち込むべきだ。

 

私が今の状態で、過去の自分に会えるなら、問答無用で施設かなにかにぶち込む。

 

予防するなら、現場じゃなくて外に目を向けるべきだ。

「頭がオカシイ」状態になるまでには、理由があるはずだからだ。

もちろんすべてがそうじゃないかもしれない。

小学1年生のいじめなら、「相手の気持に~」で更生するだろう。

しかし、ある程度自己が確立しだした高学年や中学生、それ以上の子供に向かって同じことを言って、一体何が揺らぐのだろう。

 

そして、いじめを題材にした作品だってたくさんあるが、

それらのいじめる側のキャラクターは皆こういうのだ。

 

「面白半分でやった」

「冗談のつもりだった」

 

そして反省するときに言うのだ。

「深く考えていなかった」

 

もちろん、実際そんないじめが大半なのかもしれない。

しかしそんな作品ばかりだ。だから、もう作らなくていい。

 

多くの作品が、「いじめられた側の報復劇」を見せたいだけに過ぎない。

それなら、それでいいのだ。

最初から「主人公がどういった復讐をするのかご期待ください!」といえばいいのだ。

なのにそんな作品の作者が、「これを読んでいじめが悪いことだと気付いてほしい」と言うのはおかしいことだと感じるのだ。

 

いじめる側が「悪」、いじめられる側が「善」と描写しておいて、

その「善」が「悪」をやっつける姿を見せつける。

そんな姿は見ていて気持ちがいいだろう。

 

それを見た、正義感の強い勘違いクズはこう思うのだ。

「悪は懲らしめないといけない」と。

 

 

話を、私の過去話に戻そう。

このブログは、そんな勘違いクズの話だ。

 

繰り返して言う。

私は私を赦せない。

例えどんな理由があろうとも、いじめは赦されないからだ。

 

考えながら、思い出しながら書いている。

私は今、自己矛盾に苦しんでいる。

「赦さない」「苦しい」「一生苦しめ」「幸せになりたい」

「甘えるんじゃない」「赦してほしい」

矛盾ばかりだ。

だから内容が揺れることがある。ご了承願いたい。